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HOW TO / 作品制作のヒント

写真家を志す人へ テラウチマサトの写真の教科書 第7回 私が撮りたい写真


写真の学校を卒業したわけでもない、著名な写真家の弟子でもなかったテラウチマサトが、
約30年間も写真家として広告や雑誌、また作品発表をして、国内外で活動できているわけとは?

失敗から身に付けたサバイバル術や、これからのフォトグラファーに必要なこと、
日々の中で大切にしていることなど、アシスタントに伝えたい内容を、月2回の特別エッセイでお届けします。

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写真家として、私が大切にしていることはたくさんある。その中から1つを選ぶのは簡単ではない。これから先、明日になったら変わるかもしれないが、今日までの時点で自分が大切にしてきたことを1つ挙げるとすると、「美しいものを、ただ美しく撮りたくない」ということだ。見たままを写し、こんな素晴らしい景色でした、で終わるような写真は撮りたくないと思っている。

もちろん、ただ純粋に美しい景色を写したものも魅力的だから、どちらがいいか悪いかではない。料理にも、お刺身だとか素材の良さだけで勝負するものがある一方で、フランス料理のような色々な味付けをほどこしたものがある。そのどちらにも良さがあるだろう。ただ、私は極端に言えば、これは何だったんだと思われるくらい変化のあるフランス料理が好みで、そんな写真を撮りたいというだけだ。

たとえば、写真集「NY 夢の距離」では、みんなが想像するようなNYの栄えた雰囲気ではなく、2001年のテロを境に変化したNYの、人のつながりやローカリズムを感じさせるような景色を写したいと思った。

あるいは、富士山に関しても、ただ綺麗な景色を撮りたいとは思っておらず、富士山に対して人々が抱く畏敬の念や、日本人であってよかったと感じさせる力のようなものを写したいと思いながらシャッターを切った。

富士山は休火山だ。万葉集などには、奥底は燃えているが、表面は白い雪に覆われている富士山の様子を、秘めた恋にたとえて歌っているものも多い。そのような歌に触れた時、この風景に、そんな感情を抱く人がいるんだという新しい発見があった。その発見を経て、自分も富士山を見ながら、ただ「美しい」というものとは違う感情が撮りたいと思った。

もちろん、写真で感情を表現するのは、言葉を使うよりも難しい。しかし、例えば、富士山と桜を撮るとした時、よくあるのは満開の桜に富士山。そこに、先ほど言ったような秘めた恋は感じないだろう。

以前、私は富士山と桜を、こんな風に撮った。

満開の桜と富士山を撮った写真とは違うものが伝わってくるのではないかと思うが、どうだろうか。富士山に対して、思わず手を合わせてしまいたくなるような私の気持ちや、素朴で鄙びた景色を美しいとする、日本人の“侘び寂び”の美意識、そんなことが少しでも伝われば嬉しい。

自分の感情を写真で表すことは、確かに難しいだろう。しかし、切りとり方や、構成の工夫によって、きっと見る人の心に届くはずだと、私は思っている。

もう少し、私が撮りたい写真について詳しく述べたい。
20世紀最大の宗教画家と言われるジョルジュ・ルオーの作品に、「鏡の前の娼婦」(1906年)がある。

鏡の前で裸のまま髪を整える娼婦。
青みがかった暗い背景の中で、鏡に映る彼女の眼差しは強く、こちらに何かを訴えかけてくるようにも見える。

この絵を初めて見た人は、もしかすると、汚くて、普通のコンテストなどには通るはずもないように思うかもしれない。しかし、この作品は、パリの国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)に飾られ、世界的に評価を受けている。

この作品は美しくない。
しかし、暗い青で構成されたこの絵からは、悲しさや切なさが感じられはしないだろうか。

ルオーがこの作品で表現しているのは、娼婦を職業とする女性を生み出している世の中に対しての自身の悲しみだ。つまり、「鏡の前の娼婦」を描きながら、ただ「鏡の前の娼婦」を描いているわけではない。娼婦を描くことで、ルオーは世の中の矛盾について疑問を投げかけているのである。

私は、このルオーのような表現を、写真でやりたいと強く思っている。
「鏡の前の娼婦」を「鏡の前の娼婦」として撮るのもいい。そういうポートレイトや風景を撮る人もたくさんいる。しかし、それを続けていると、いつかどこかで行き詰まってしまい、底が浅くなるような気がしてしまう。

単に刺激されて気持ちいいということと、心が感動することは違う。美しい写真は、一度の刺激にはなり得るかもしれない。しかし、その刺激は、もう一度見る時には薄れるだろう。
感情を写した写真には、美しさとは違う感動がある。美しいものを美しく撮る写真家がいてもいいが、そのジャンルをやるべきは私ではないと思う。

美しい人物も、風景も、身の回りには溢れている。それを材料にして、自分が抱いた感情を写した写真こそ、写真家として自分がやっていくべきものだと信じている。

◆プロフィール
テラウチマサト
写真家。1954 年富山県生まれ。出版社を経て1991 年に独立。これまで6,000人以上のポートレイトを撮影。ライフワークとして屋久島やタヒチ、ハワイなど南の島の撮影をする一方で、近年は独自の写真による映像表現と企業や商品、及び地方自治体の魅力を伝えるブランドプロデューサーとしても活動中。2012年パリ・ユネスコにて富士山作品を展示。主な写真集に、「ユネスコ イルドアクトギャラリー」でも展示した富士山をとらえた『F 見上げればいつも』や、NY でのスナップ写真をまとめた『NY 夢の距離』(いずれもT.I.P BOOKS)がある。www.terauchi.com

 

第1回 気が付いたら写真家になっていた
第2回 私の修業時代
第3回 本当なら、僕は選ばれなかった?
第4回 機材編:写真の出来栄えはレンズで変わる?
第5回 100回のフォトコンテスト審査を経て気付いた審査の傾向
第6回 写真上達の順番
第7回 私が撮りたい写真
第8回 旅を写真にする!

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STORY TELLER / 写真家達の物語 vol.37

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