日常と非日常の裂け目に目を凝らした、須田一政『風姿花伝』|飯沢耕太郎が選ぶ時代に残る写真集


 須田一政は1940年に東京市神田区(現・東京都千代田区)に生まれた。東洋大学を1961年に中退し、東京綜合写真専門学校で学ぶ。1962年に同校卒業後、フリーの写真家として活動し始めた。1967〜70年には演劇実験室「天井桟敷」の専属カメラマンも務めた。1976年に「風姿花伝」の連載で日本写真協会新人賞を受賞。以後、1983年に「物草拾遺」で日本写真協会年度賞、1985年に「日常の断片」で東川賞国内作家賞、写真集『人間の記憶』(クレオ)で土門拳賞を受賞した。2019年に逝去する。

 須田一政が写真家として新たな方向性に踏み出したのは、6×6判のカメラ、ミノルタオートコードを使い始めてからだった。その天地、左右の感覚が曖昧な真四角なフレームに被写体を呼び込み、ふわふわと宙に漂うような浮遊感を生じさせるカメラワークによって、須田の独特の写真の世界が形をとっていった。

 「天城峠」(『カメラ毎日』1972年2月号)、「残菊ブルース」(同5月号)などに発表された6×6判の作品は評判を呼び、『カメラ毎日』(1975年12月号〜1977年12月号)に8回にわたって断続的に連載される「風姿花伝」のシリーズに結びつく。それらの写真群100点を集成して、1978年に、長谷川明の編集で「ソノラマ写真選書16」として刊行されたのが、須田の最初の写真集となる『風姿花伝』である。

 能楽の大成者、世阿弥の芸論からタイトルをとった写真集の中心になっているのは、関東一円から東北地方、さらに岐阜県郡上八幡や富山県八尾に至る各地で撮影された祭礼と、そこに集う人々の姿である。

 だが、須田は祭りの民俗学的な背景に関心を抱いていたわけではない。

むしろ、彼はそれらの場面を、日常と非日常の「あわい」に分け入るための装置として捉えていたのではないだろうか。そこに写っている、人間もモノも、あるいは犬や猫や蛇や山羊のような生きものでさえも、アニミズム的といえそうな異様な実在感を備えて見えてくる。6×6判の真四角な画面に捕獲された被写体は、視覚よりもむしろ触覚を刺激する「わけのわからないもの」として、不意に目の前に出現してくることになる。

 『風姿花伝』は、既に雑誌掲載時に1976年度の日本写真協会新人賞を受賞するなど、高い評価を受け、須田の写真家としての存在感を揺るぎないものとした。だが、彼はその世界に安住することなく、カラー写真も積極的に撮影するようになり、時には超小型カメラ(ミノックス)、ポラロイドなども使用して、その作品世界を大きく拡張していった。体調が悪化してからも、人工透析を受けながら、写真家としての活動を続け、2019(平成31)年3月に逝去した。その、湿り気を帯びた日本の風土に根ざしつつ、日常と非日常の裂け目に目を凝らし、形のない何ものかを探りあてようとした彼の写真のあり方は、他の追随を許さない高みに達している。

飯沢耕太郎が選ぶ「時代に残る写真集」Vol.27
須田一政『風姿花伝』[ソノラマ写真選書16]朝日ソノラマ、1978年

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