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HOW TO / 作品制作のヒント

“あの人がいたから、ここで頑張ろうと思えた” テラウチマサトがはじめて語る“師”とは


テラウチマサトの写真の教科書vol.20。
今回は“師”について語ります。今まで一度も、師と仰ぐ人物について語ったことがないというテラウチ。写真が抜群に上手く、若い頃からずっと憧れ、惹かれてきたその存在とは?

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僕にとっての“師”

今まで、師について語ったことは一度もない。師について語ることは、どこか初恋の人の名前を言うような感じがする。遠くから見ていて憧れていただけだから、言ってしまって迷惑はかからないだろうかと気がかりなものだ。

だから、この記事を読む人には申し訳ないけれど、僕が師と仰ぐ人の名前は明言しないことにする。

僕は彼を心から尊敬している。写真の技術も生き方も。一面しか見ていないかもしれないが、写真集をすべて持っているくらい、その方の写真が好きだ。嬉しいことに、撮影やインタビューをさせてもらったこともある。

彼は、今も昔も写真業界の誰もが知っているスーパースター。お話を聞いた時には既に写真家の中で相当な位置にいたと思うけれど、「永遠に続いてきた写真の潮流の中で、有名な写真家が連綿と座ってきた椅子の端っこにでも座れるようになりたい」と言われていたのを鮮明に覚えている。その姿はとても眩しいものだった。

その方の写真は抜群に上手い。それは奇を衒った上手さではなく、純粋に写真の持つ面白さだ。変な自己主張をしていないけれど、しっかりとした存在感とオーラのある作品。
若い頃からずっと見てきた。憧れ、惹かれてきた。その名前をここで言うこともできないくらい、心に大切に秘めた存在。僕はあの人がいたから、この写真業界のなかでも頑張ろうと思うことができたのだ。

師であり、弟子でもある

写真家としての活動も次第に長くなり、PHaT PHOTO写真教室でも講師であることから、自分を師匠と呼んでくれる人もいる。本当にありがたいことだ。

弟子として何かを学ぶことも大変だが、同じくらい師匠としての振る舞いも難しいような気がする。僕は、教える立場としての態度は、その時々に変えることにしている。

例えば、アシスタントに対して。アシスタントはプロになりたいと思って傍にいるわけだから、僕はある意味勝手にしている。好きにさせてもらっていると言う方が近いかもしれない。

彼ら彼女らにはいつも、「常に僕を見ていろ」と教えている。たとえば現場にどんなに綺麗なモデルがいても、どんなに美味しそうな料理があって、それを撮影していても、常に僕だけを見ていろと。
それは、僕が何をしたいのか、何を考えているのかを推し量ってほしいと思っているからだ。

サッカーでは、ゴールを決めた人と同様にアシストした人も称えられる。僕は、アシスタントというのはつまり、キラーパスができる人じゃないかと思っている。
あの選手の走り方だったら、あそこに出しても届くだろう。ここから出せば、きっと気づいて飛びつくはずだ。そういう一瞬の判断は、よく観察して推測・想像しない限りできることではない。

僕はアシスタントにそういうものを求めていて、その呼吸が合うようになって数か月経ったなら、独立を勧めようと思っている。
僕が見つめているもの、考えていることに敏感であってほしい。なかなかそうなるには時間がかかるものだけれど、その時を待ち、期待しながら、好きに振舞っている。

写真教室での場合は、少し違う。みなさんは、めだかの学校という歌を知っているだろうか。僕はその歌詞の中の一節を頭に思い浮かべながら、今まで教室をつくってきた。

めだかのがっこうのめだかたち
だれがせいとか せんせいか
だれがせいとか せんせいか
みんなで げんきにあそんでる

「誰が生徒で先生か」。
先生というのは、尊敬されることで絶対的なものになりがちだ。時には、自分だけが正しいと偉そうになってしまうこともある。

教室で写真を趣味として習いたいという方たちは、写真については初心者かもしれないが、他のことに関して秀でている人たちがたくさん集まっている。様々な年代、性別、職種。多くの異なる特徴をもった人たちが、1つのクラスをつくり上げているのだ。

写真を見るということにおいて、確かに先生は、絶対的基準というものをプロとして持っているだろう。しかし、絶対的な視点で見るということは、ある意味で何かを見落としているということではないかと思う。

同じ風景でも、木を見ている人もいれば、建物を見ている人もいる。そこには、他者の視線を味わう楽しさが生まれてくる。僕はあっちを見ていた、私はこっちを見ていたと会話するのは、新鮮な体験ではないだろうか。

©Masato Terauchi

見方というのは、往々にしてその人の生き方と被る部分があるものだ。たとえば海や波の写真を美しいと思っていても、震災以降はその景色に対する感情が変わったりする。
経験してきたこと、耳にした言葉、目に映したもの、そういう生きてきたすべてのものが、写真を見る視線にはあらわれる。

同じものを見ていても、心が震える部分はそれぞれ違う。「僕はこんなところがいいと思ったけれど、あの人はここが素敵だと思ったんだ」「そんなものが写っていたなんて気づかなかった」。

そんな誰かを受け入れられる声が聞こえる教室であればいいと願っている。そういうものの観方を示すことが、僕が教室で師として立つことの意味だと思う。みんなが教わる人でありながら、誰かの師であるのかもしれない。それはきっと、僕も同じだろう。

PHaT PHOTO写真教室

テラウチマサトが校長を務めるPHaT PHOTO写真教室。教室の理念は“ナンバー1を競う文化”ではなく、“励ましあう文化”の中で授業を展開すること。講師は、生徒それぞれの個性を理解し、生徒たちの「夢の同伴者」であることを目指しています。


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