写真家を志す人へ テラウチマサトの写真の教科書 第3回 本当なら、僕は選ばれなかった?
写真の学校を卒業したわけでもない、
著名な写真家の弟子でもなかったテラウチマサトが、
約30年間も写真家として広告や雑誌、また作品発表をして、
国内外で活動できているわけとは?
失敗から身に付けたサバイバル術や、これからのフォトグラファーに必要なこと、
日々の中で大切にしていることなど、
アシスタントに伝えたい内容を、月2回の特別エッセイでお届けします。
第1回 気が付いたら写真家になっていた
第2回 私の修業時代
第3回 本当なら、僕は選ばれなかった?
第4回 10月2日(月)更新予定
テラウチマサト
写真家。1954 年富山県生まれ。出版社を経て1991 年に独立。これまで6,000人以上のポートレイトを撮影。ライフワークとして屋久島やタヒチ、ハワイなど南の島の撮影をする一方で、近年は独自の写真による映像表現と企業や商品、及び地方自治体の魅力を伝えるブランドプロデューサーとしても活動中。2012年パリ・ユネスコにて富士山作品を展示。主な写真集に、「ユネスコ イルドアクトギャラリー」でも展示した富士山をとらえた『F 見上げればいつも』や、NY でのスナップ写真をまとめた『NY 夢の距離』(いずれもT.I.P BOOKS)がある。www.terauchi.com
第3回 本当なら、僕は選ばれなかった?
「アサヒカメラ」の2位を皮切りにいろんなコンテストに応募する様になり、次々と賞や入選を貰った。
ワークショップにも顔を出すようになったあるとき、フリーランスの写真家として「女優」や「おんな」をモチーフにした広告や雑誌、TVCFで活躍していた一色一成(いっしきいっせい)さんに写真を見てもらう機会があった。
個人的にではなく100人ほどが作品を提出し、順に作品講評してもらうワークショップ。講評希望者で埋まった部屋の真ん中あたりに座って、スライドで投影される写真の講評を聞いていた。
自分の作品が投影された。光るバイクの写真。一瞬間があって「この写真は誰?」と一色さんが受講生を見まわす。恐る恐る「僕です」と小さな声で答えた。
「君、APA(日本広告写真家協会)に応募したらいいよ」と言われた。嬉しくて、その後のことは覚えていない。
それだけで有頂天だった。
その言葉を貰ってホクホクして帰った。APAへの応募もしなかった。一色さんの言葉を反芻しながら小さな幸せに浸るだけで良かった。
恥ずかしい事件もあった。
キヤノン主催のフォトコンテストでグランプリを貰った。審査員は中村正也さんで、コマーシャルや斬新なヌード作品で群を抜く人だった。当時、APA(日本広告写真家協会)の会長さんだったように思う。
受賞パーティがあると通知が来て気分高揚で参加した。賞状とトロフィーを貰った。大きな鷲が羽を広げた立派なトロフィー。
高揚感はさらに高まる。表彰式後、懇親会。パーティ会場で中村正也さんを見つけ話しかけた。
「僕が、中村正也賞をいただいたテラウチです」
「あぁ、君か。実は、ロケに出ていてね、君の写真を見ていなくてね」
「えっ」
「審査してたら、君の写真は選んでいなかったなぁ」
「えっ」
声が小さくなった。
「君は写真を見せるということに対してなってない。審査員に対して失礼だと思うよ」
「はぁ」
とさらに小さな声。
「写真を見せる際、余黒を付けたまま見せるなんて、僕が審査をしていたら写真を見る前に落としてたよ」
「ガーン」
これが「私、心暗黒になりました問題!」である。
※キヤノン主催のフォトコンテストでグランプリを取った作品(余黒がついていないもの)
応募写真はスタジオ撮影会で撮ったもので、外人モデルにパラシュートを付けて風を起こし、パラシュートを膨らませて撮った。
ポジフィルムで撮って6つ切りにダイレクトプリント。35ミリフィルムで2:3のメディアサイズだから、ポジでダイレクトプリントした場合、余白の部分が黒くプリントされる。中村正也さんが余黒といった部分だ。
それをカットすることなくそのままにして応募していた。「審査員に対して失礼な見せ方」。その言葉が頭を埋めて、鷲の大きなトロフィーが邪魔なくらい恥ずかしかった。
“見せることも含めて写真である”を肝に銘じた出来事。
一色一成さんも中村正也さんも鬼門に入られたが、プロになってからもお2人には不思議な縁でお世話になった。ある時、それぞれにこの出来事について話した。
お二方とも当然の様に全く覚えていないと言われた。あんなに有頂天になり、また谷底で引っくりかえっていたのに。
テラウチ語録の「打席に立たなければヒットは打てない」を一色一成さんから、「見せることも含めて写真である」は中村正也さんから学んだこと。
無駄なことは何もなかった。
それに気づいたのはずいぶん時間が経ってからだったけれど。