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「リヒター前リヒター後」|𠮷田多麻希


text: 𠮷田多麻希

私は絵が描けない。見事に下手だ。

描きたい、そこに生み出したい、という思いはかなり強いのだけど、とにかく下手すぎる。
「だから」と言っては大袈裟かもしれないが、あえて言う。
だから、写真という表現に向かった。これが過去の私。

いつのことだっただろう。
深夜、街灯に照らされ風に揺れていた街路樹を撮った私の写真を見て、その時一緒にいた人が「リヒターみたい」と言った。なんのこっちゃ。とその時は思ったけれど、確かに、風に揺れる街路樹の枝葉の写真は、偶然にもリヒターの描くフォト・ペインティングのぼけて不明瞭なビジュアルの様に見えた。私がリヒターを初めて知ったのは、その時だ。(かと言って、別段リヒターについて詳しく調べることもなかったのだけれど。)

ゲルハルト・リヒター《ヨシュア》 2016年 ゲルハルト・リヒター財団蔵
© Gerhard Richter 2022 (07062022)

それから随分と経った今、私は東京国立近代美術館でリヒターの作品を目の前にして、「ずるい」と思っていた。1枚の絵を前にして、心底羨ましいと思った。綺麗なブルーの瞳は、何の濁りもなく、とても無垢な視線を鑑賞者に向けていた。リヒターが自身の息子を描いた絵《モーリッツ》だ。

ゲルハルト・リヒター《モーリッツ》 2000/2001/2019年 作家蔵
© Gerhard Richter 2022 (07062022)

何も知らずにその絵を見たならば、「愛らしい」「綺麗な瞳だ」「写真の様だ」「リヒターが描くと、息子の姿はこうなるのか」など、どうってことのない感想が並びそうなその絵のキャプションを読んだ瞬間、あまりの事の大きさに愕然とした。彼は、絵を描き直している。

息子が8ヶ月を迎える頃の「写真」を元に描いておきながら、その8ヶ月の姿のまま、年を跨いで2度も加筆している!

目の前の現象をなんらかの「機械」を通してメディアに落とし込むことが写真だ。という前提において、これは絶対に写真にはできない行為だ。(デジタル加工はできても)写真では撮り直しや、多重露光をしようとも、数年に渡り生後8ヶ月を繰り返すことなんてできない。

もちろん、絵画において写真を元に描かれ加筆や修正されていることは、大して特殊なことではないのだろう。でも、この絵が「写真」を元に描かれたということが、私には改めて大きな意味に感じられる。元は「写真」だというのに、絵画でしかできない行為を用いて生み出された『モーリッツ』を見て、私は心底ずるいと思ったのだ。絵画に対して、その行為を用いることが可能なリヒターに対して、本当に羨ましく思った。

ゲルハルト・リヒター《頭蓋骨》 1983年 ゲルハルト・リヒター財団蔵 
© Gerhard Richter 2022 (07062022)

やりたくても写真には永遠にできない行為を彼は堂々と行なっている。そして、分かってはいたものの、改めてそこに示されたのは、あくまでもリヒターにとって「写真」は現実をただ写し出し、創造へ導く「ベース」であるということ。

「なんなんだよ。」

と、ぼやきが声に出ていた。

© Gerhard Richter 2022 (07062022)

もう1つ、愕然としたのが、今回の展示のメインの1つでもある《ビルケナウ》だ。

会場に行くと分かるが、この《ビルケナウ》はゾンダーコマンド(ナチスが選抜し、数か月の延命と引き換えに、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊のこと)が撮ったモノクロの収容所の写真、アブストラクト・ペインティングと、アブストラクト・ペインティングを撮った写真パネル、そしてグレイの鏡が1つのセットになって展示されている。

気になったのは、ペインティングの《ビルケナウ》と向かい合う位置に展示されている、その写真ヴァージョンの《ビルケナウ》だ。この写真パネルのツルリとした質感を見た時、思わず声を失った。

ゲルハルト・リヒター《ビルケナウ(写真ヴァージョン)》 2015~2019年 
ゲルハルト・リヒター財団蔵 © Gerhard Richter 2022 (07062022)

かたや最下層に収容所の写真が描かれていることが分からなくなっているにも関わらず、ぱっと見ても異様な雰囲気がダダ漏れしているアブストラクト・ペインティング。その正面に対となって存在するこの平面はなんだ。

一見同じ模様なのに、何もない様に見える複写のパネル。写真で様々なモノを表現しようと奮闘しながら、そのどうにもならない平面性に苛立っていた私に決定的な最後の一撃を加えてきた。

もちろん、この写真パネルには、リヒターがわざわざデジタルで撮り、同寸にまで引き伸ばし展示する意味がある。これは私の勝手な解釈だけど、同じ絵柄なのに、何のテクスチャーもない写真故のツルリと平坦なパネルと、何層にも色が重ねられ、かつスキージで伸ばされ引きずられ削り取られ、生々しくその痕跡が残るペインティングと対比させ差を生むことで、おそらく私たちは、見え方や向き合い方を変化させられている。

ゲルハルト・リヒター《ビルケナウ》 2014年 ゲルハルト・リヒター財団蔵 
© Gerhard Richter 2022 (07062022)

ペインティングのどこの何を見ているのかも分からない、引き摺り込まれるような飲み込まれるような圧倒的な物質感。思わず近寄ってその細部を覗き込み、また遠ざかって全体を見渡し、また細部に戻り、視覚に飲み込まれるペインティングに対して、一見ペインティングかと思うものの、どこまで覗き込んでも近寄っても、一定表面しか見えてこない、寄っても引いてもどこか変わらない距離感の写真パネル。それはまるで安全圏から見れる動物園の様。そう、私はただただ、その写真の物質としての平坦さに、100年の恋がさめる勢いで私の写真への想いが崩れ始めた。

ゲルハルト・リヒター《モーターボート(第1ヴァージョン)》 1965年 
ゲルハルト・リヒター財団蔵  Gerhard Richter 2022 (07062022)

勿論、写真には、写真にしかできないことがある。

例えば、偶然性。

写真は、自分の思考の範疇を越え、意図しないところまで無意識のうちに取り込んで撮れる。結果、もう2度と再現できないその瞬間にしか生まれない時間を残すことができるのが写真の醍醐味。

ゲルハルト・リヒター《3月》 1994年 作家蔵 © Gerhard Richter 2022 (07062022)

でも、リヒターは、この偶然性をアブストラクト・ペインティングで行っている。彼が「贈り物」という様に、(*展示会場音声ガイドより)本来なら絵画では取り入れることが出来にくい偶然性を、無意識下、即興で取り入れる色や、スキージやキッチンナイフが生み出す色や形を絵画に持ち込むことで行なっている。
しかもそこにはしっかりと時間の経過も見てとることができる。

「写真でなくていいやん…」

この空間にいると、ある種不自由なメディアでもある写真に幻想を抱きすぎることへと、それしか手段がないと思い込んでいる自分にも限界を感じた。そして、とんでもなく大きな問いを見せられている気がして、私は途方に暮れた。「あなたは写真に何を求めているの?」と。

© Gerhard Richter 2022 (07062022)

私は写真が本当に好きなのか?
私は今まで写真に何を見てきたのか。写真を知っていたのだろうか?

「写真を撮ろう」と決めた人がなんらかの装置を操作して得られた画像の何をもって、「良い写真」「良くない写真」と振り分け、人は写真に何を託すのか。「そもそも本当に写真が最適なの?」と。

今まで写真展に行っても絵画を観に行っても現代アートを観ても、こんな疑問が浮かんでくることはなかった。おそらく、リヒターが徹底的なまでに「見ること」「見えること」を作り上げた空間で、各壁のあいだ間に置かれた鏡やガラスが、いやでも写真というメディアを思い浮かべさせるからだと思う。あの鏡やガラスはカメラだ。その都度鑑賞者である自分とその空間をそこに写し出し、まるで写真を撮られているように、冷静に現実を見せてくる。

写真と絵画を行き来しながら生み出された作品を前に、その突き出された問いと思考の浅瀬をふらふら彷徨いながら、他の来場者とおそらく全く違う意図で会場をぐるぐると何度もなぞり返し、そして今もまだ引きずっている。いやむしろ、引きずり込まれている。

© Gerhard Richter 2022 (07062022)

リヒターが作り出すあの広い空間は、思考の沼。自分と世界の関係性を写し出す水面を持った濃いグレーの沼。表面を見ている限り、そこにはただ今がキラキラと写っているだけだが、そこに顔を近づけると違うものが見えてくる。リヒターが絵画の可能性を拡張したように、もしかすると、この乱反射する思考の先に、自分なりの写真の「可能性の可能性」を探すことができるのかもしれない。野生の楽園を探しに行くには、この沼に潜り込み深みを進まなければ。引きずり込まれ、それに気づいてしまった今は、もう進むしかない。
さてさて、どこまで息が持つか。

あぁ。全てリヒターのせいだ。

会場: 東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー
会期: 2022年6月7日(火)~ 2022年10月2日(日)
休館日: 月曜日(ただし7月18日、9月19日は開館)、7月19日(火)、9月20日(火)
開館時間: 10:00-17:00(金曜・土曜は10:00-20:00)
*入館は閉館30分前まで
https://richter.exhibit.jp/

執筆者
𠮷田多麻希(よしだたまき)/兵庫県神戸市生まれ。2000 年より東京を拠点に移し、スタジオワークを経てフォトグラファーとしてのキャリアをスタートさせる。様々な広告、雑誌の撮影を手がける。2019年、写真新世紀にて優秀賞を受賞。KYOTOGRAPHIE「KG+2021」にてグランプリを受賞し、KYOTOGRAPHIE「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」(2022)に参加。
Instagram: @tamakiyoshida_

*記事トップのメインビジュアルクレジット:© Gerhard Richter 2022 (07062022)


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