ネットであっさり!? 発見された 伝説の写真家・飯田幸次郎



飯田幸次郎という写真家をご存じだろうか?
1920~30年代にかけて、浅草でそば屋を営みながら、雑誌「光画」で作品を発表し、
写真業界の転換期に活躍した写真家だ。

長い間わからなかった、飯田幸次郎のその後が判明し、
彼の全作品を収録した『写真 飯田幸次郎』が出版された。
彼はどうやって見つけだされたのか?
写真集食堂「めぐたま」で開催された、制作者たちによるトークショーに参加してきた。

登壇者:
HALさん(幸次郎の孫、アーティスト、大学教授)
金子隆一さん(写真評論家、写真史家)
川口和之さん(写真家)
中村恵一さん(文化史研究家)
飯沢耕太郎さん(写真評論家)
写真集『写真 飯田幸次郎』
A4判/並製/80頁/ケース付
2017年12月20日 初版発行
発行:飯田幸次郎写真集刊行委員会
(飯沢耕太郎・飯田ハルオ・金子隆一・川口和之・中村恵一)
編集:川口和之 デザイン:飯田ハルオ
定価:2,700円(税込)
写真集食堂めぐたまナディッフ アパートフォトグラファーズギャラリー等で販売中!

 

伝説の写真家 飯田幸次郎とは?

ここに「看板風景」と呼ばれる写真がある。

「看板風景」光画 1932年5月号 ‟Landscape of the signs”

看板の文字などから時代は感じるが、なぜか古びて見えない。
望遠レンズの圧縮効果を活かした、印象的な1枚だ。

飯田幸次郎の作品の中でも評価の高いこの写真は、1932~1933年に刊行されていた新興写真を代表する雑誌メディア、「光画」の創刊号に掲載されている。

飯田幸次郎は、1895年、東京都の下谷区(現在の台東区)に生まれる。1908年に浅草に転居して、のちに飯田屋というおそば屋さんを営むようになる。その2階に、写真のアトリエを構えていた。

幕末・明治時代は、カメラも乾板も非常に高価な時代。なかなか一般庶民が手を出すことはできなかったが、大正時代からアマチュア写真家の層が広がり、飯田幸次郎のようなおそば屋さんの店主でも趣味で写真ができるようになってきた。

「浅草界隈は並木写友会やヤマト写真クラブなど、写真クラブの活動がものすごく活発だった地域。そこからいい写真家も出てきました。木村伊兵衛もそのひとりです。飯田幸次郎も並木写友会で木村伊兵衛と活動します。大正末から昭和の初めくらいですね」(飯沢)

明治~大正時代は、「芸術写真」と呼ばれる、絵画のような表現方法が主流だった。

飯田幸次郎も「写真芸術」や「フォトタイムス」、「カメラ」という雑誌に作品を発表し始めるが、最初は「看板風景」のようなピントの合ったシャープな写真ではなく、ソフトフォーカスがかかったような「芸術写真」を撮影していた。

「睡蓮」芸術写真 1923年8月号 ‟A water lily”

当時、値段が安くて使いやすいカメラだったベストポケットコダックが輸入され、ベストポケットコダック単玉レンズ付きは通称べス単と呼ばれ、流行っていた。

レンズフードを外して単玉レンズの絞りを開放にして撮る「ベス単フード外し」をすると、このような柔らかい描写の写真を撮ることができたのだ。
(しかし、「睡蓮」がこの手法で撮影されたかの確証はない)

しかし1923年に関東大震災が起きて時代は変わっていく。
地下鉄が走り、自動車が走り、鉄筋コンクリートのビルが建ち、東京の風景が様変わりしていくと、芸術写真は少し古臭く感じられるようになってきた。

さらに、1931年、多くの日本の写真家がショックを受けた写真展が開催される。独逸国際移動写真展だ。

1929年にドイツ・シュトゥットガルトで「映画・写真国際展」という歴史に残る大展覧会があり、そのなかの写真部門だけを独立させた展覧会だった。

海外の写真家のオリジナルプリントが1,000点以上展示され、これを見た多くの日本の写真家が大ショックを受けたという。いまのようにインターネットのある時代ではない。まさに黒船の襲来だ。

飯田幸次郎も、この展覧会を観ていたのだろうか?

「さあ、どうでしょうか。聞いたことはありません。私がこの展覧会を観たと直接聞いたのは、桑原甲子雄さんだけです。ライカでスナップショットを撮っていた木村伊兵衛は、見たと書いていました。この道でいいと、確信したとね」(金子)

そのような時代の流れの中で生まれた写真雑誌が「光画」だ。1933年までに全18冊刊行された。

飯沢耕太郎/金子隆一監修『日本写真史の至宝 別巻 光画傑作集』国書刊行会、2005年より (左)「光画」の表紙

創設メンバーは、明治時代から芸術写真の騎手のひとりでもあった野島康三、関西の芦屋カメラクラブで活動していた中山岩太、そして木村伊兵衛。

東大美学美術史科出身で新進気鋭の批評家であり、評論家、歴史家、美術史家でもある伊奈信男は2号目から加わった。

「飯田幸次郎は、おそらくそれまで交友のあった木村伊兵衛を仲介にして『光画』で発表するようになったのでしょう」(金子)

「『光画』は『新興写真』を代表する雑誌で、その創刊号に飯田幸次郎の作品も掲載されていました。これは通称、『くず車で眠る少年』。くずやさんの車の中で、子供がくたびれて寝ている写真だと思うのですが、貧しい時代の生活感がにじみ出ている。この少年が死んでいるようにも見えて、怖さもある。僕にとって非常に衝撃的でした」(飯沢)

「・・・(屑車で眠る少年)」光画 1933年11月号 ‟・・・(The boy who sleeps in the wast car)”

飯田幸次郎は、野島、中山、木村などの創設メンバーに次ぐ作品数を「光画」で掲載していた。

しかしそのあとぷっつりと、消息が途絶えてしまう。

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