なぜ、ロバート・フランクは日本の写真家たちに決定的な影響を及ぼしたのか?|飯沢耕太郎が選ぶ時代に残る写真集
ロバート・フランクは1924年、スイス・チューリヒに生まれる。1947年に渡米し、55〜56年に、グッゲンハイム奨学金を得て全米を旅しながら撮影した写真による『アメリカ人』(フランス語版1958年/英語版1959年)を出版する。以後映画作家に専念した時期もあるが、1972年刊行の『私の手の詩』から、ふたたび写真家としての活動を再開した。2019年に9月に94歳で死去するまで、多くの写真集を刊行、展覧会を開催してきた。
ロバート・フランクについては、既にこの欄で『私の手の詩 The Lines of My Hand』(邑元舎、1972年)を紹介している。ところが、2019年9月9日に94歳で逝去したという情報が飛び込んできた。そこで、あらためて彼の最初の写真集『アメリカ人』と、それが日本の写真家たちに与えた影響について考えてみることにしたい。
出来栄えに満足できなかったフランス語版
フランクが1955〜56年にグッゲンハイム奨学金を得て、全米を中古のフォードで旅して撮影した写真をまとめた『アメリカ人』は、まず1958年にフランス語版の『Les Américains』として出版される。だが、それは社会学者のアラン・ボスケによるテキストと写真とが交互に並ぶ構成だった。その出来映えに満足できなかったフランクは、
翌59年にテキスト抜きの写真だけの英語版『The Americans』をGrove Pressから刊行した。
以後、この写真集は掲載図版のレイアウトを微妙に変えながら、現在のSteidl版まで版を重ねる。ここで紹介するのは、Grove Press版より一回り大きなサイズになった、1986年のPantheon版である。
1960年代になると、この写真集は日本にも輸入されるようになり、多くの写真家たちに決定的な影響を及ぼしていく。報道写真のように、あらかじめ何をどう撮るのかが定まっており、写真家を強く拘束する写真のあり方に対して、フランクは、あくまでもパーソナルな関心に根ざした、もっと自由な撮り方を打ち出していった。
「コンポラ写真」に影響を及ぼした『アメリカ人』
また、「決定的瞬間」ではなく、出来事の「アンチクライマックス」を捉えた『アメリカ人』のスナップショットのスタイルも、大きな共感を持って迎えられる。日本の写真家たちは、特別な意味を持つ出来事ではなく、むしろ曖昧で流動的な日常の厚みを、そのまま写し込むような写真を模索し始めていたのだ。高梨豊、柳沢信、秋山亮二、さらに「コンポラ写真」と称された若い写真家たちの1960年代〜70年代の仕事には、明らかに『アメリカ人』が影を落としている。
一方、フランクもまた、日本の写真家たちの仕事に強い共感を抱いていた。1980年代になると、彼は日本をたびたび訪れ、荒木経惟や鈴木清らと交友するようになる。この時期以降の彼の作品には、日本の「私写真」と共通する、生と写真との境界線を飛び越え、プライヴェートな日常を積極的に取り込んでいくような要素が強まってくる。フランクが亡くなったのと同時期に、ちょうど清里フォトアートミュージアムで大規模な回顧展「もう一度、写真の話をしないか。」が開催中だったことは、フランクと日本の写真界との絆の強さを象徴的にさし示しているように思えてならない。
ロバート・フランク『アメリカ人』PANTHEON(1958年)
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