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ロバート・フランクが再び写真へ向かうきっかけに。突然訪ねてきた日本人と作った写真集とは?|飯沢耕太郎が選ぶ時代に残る写真集

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ロバート・フランク(Robert Frank)は1924年、スイス・チューリッヒに生まれる。1947年に渡米し、55〜56年に、グッゲンハイム奨学金を得て全米を旅しながら撮影した写真による『アメリカ人』(The Americans)(フランス語版1958年/英語版1959年)を出版する。以後映画作家に専念した時期もあるが、1972年刊行の『私の手の詩』から、ふたたび写真家としての活動を再開し、90歳を超えた現在に至るまで、多くの写真集を刊行、展覧会を開催してきた。

写真から距離を置いていたロバートフランク

1971年11月のある日、ロバート・フランクのニューヨークのスタジオを、2人の日本人が通訳をともなって訪ねてきた。写真集専門の出版社、邑元舎を立ち上げたばかりの元村和彦と、その友人の幡谷紀夫である。2人の目的は、フランクの新しい写真集を出版する許可を得ることだった。その願いは聞き届けられた。写真集は翌年、杉浦康平のデザインで、『私の手の詩 The Lines of My Hand』と題して邑元舎から刊行される。

フランクはこの時期、写真から距離を置いていた。1959年にGrove Pressから刊行された『アメリカ人』は、あくまでも個人的、詩的な眼差しで同時代のアメリカを描き出した傑作として高い評価を受け、若い写真家たちからバイブルのように扱われるようになる。だが、

自由な表現者として生きることを望んでいた彼にとっては、その評判はむしろ重荷になるものだった。1959年に自主映画『ひな菊を摘め』(Pull My Daisy)を発表して以来、しばらくは映画製作に専念していた。

自らの半生を振り返る野心的な構成

それでも、彼もいつかは写真に戻ることを考えていたのではないだろうか。元村和彦の依頼を受けたフランクは、野心的な構成の写真集を構想する。英語のタイトルの「The Lines of My Hand」というのは、生命線や感情線のような掌の筋のことである。つまり、手相を見るように自らの半生を振り返り、写真によって再構成するというのが、彼のもくろみだった。

写真集はまず、「いまは亡き友人たち」のポートレートから始まり、息子のパブロと娘のアンドレアの写真が次に来る。

それから、スイス時代、ニューヨークに着いたばかりの頃、フランス、スペイン、ロンドンヘの旅、『アメリカ人』撮影当時の全米各地の写真などが、家族や友人たちの写真を間に挟んで次々に並ぶ。


最後のパートには、ニューヨークの街を走るバスから撮影した「Ten Bus Photographs」と、自作の映画のフィルムをそのまま密着焼きした写真群がおさめられている。



フランクは「Ten Bus Photographs」のキャプションで、この作品が「写真についてのわたしの最後のプロジェクト」になると述べている。

どうやら彼は、写真集を刊行後、ふたたび映画作家として活動するつもりだったようだ。だが結果的には、その決意を全うすることはできなかった。フランクは1980年代以降、より精力的に写真を撮影し、写真集をまとめ、展覧会を開催するようになる。この『私の手の詩 The Lines of My Hand』の刊行が、その大きなきっかけとなったのは間違いないだろう。

飯沢耕太郎が選ぶ「時代に残る写真集」Vol.19
ロバート・フランク『私の手の詩 The Lines of My Hand』邑元舎(1972年)

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