【本誌連載】私が撮れなかった写真 Vol.2 小林紀晴


イラスト=トリイツカサキノ Sakino Toriitsuka
toriitsukasakino.com

コーラと田んぼと、タイガーマスク

いまから15年以上前になるだろうか。私は秋田県の男鹿半島の先にいた。町の名前もすでに覚えていない。季節は夏だった。私はだらだらと汗を流していた。東北といえば涼しいだろう、という勝手な思い込みが簡単に覆されたときだった。湿気もあって、東京と対して違わないと思ったことをよく覚えている。
私は雑誌の撮影でその町を訪ねた。その半年ほど前から、月刊の男性ファッション誌で連載をさせていただいていた。それでいて、内容はファッションとはまったく関係なく、沖縄から北海道まで1年かけて旅をするというものだった。つまり12回のあいだに少しずつ北上すればよかった。決まっているのはそれだけで、基本的にはどこに行っても、何を撮ってもよかった。編集部からの希望はできるだけ人に出合い、人の写真を入れてほしいというものだった。

東北には現在もみちのくプロレスがあるが、当時そこにタイガーマスクが所属していた。初代タイガーマスクは佐山聡氏で、それは私が小学生の頃のことだったのだが、かなり熱中した。アニメからそのまま飛び出してきたような軽やかな動きに興奮したのだ。それからときを経て、タイガーマスクは初代から数代後にみちのくプロレスにやって来ていた。
この日、みちのくプロレスの試合は小学校の体育館で行われることになっていた。予定より数時間早い時間に私は着いてしまった。何故だったのだろうか。電車の本数が少なかったからだろうか。とにかく体育館の前の石段に長い時間座っていた。蝉が鳴いていた。視界の先には田んぼだけがあった。退屈だった。

私の隣には数人の小学生がいた。彼らもまたプロレスの試合を観るために来ていた。試合までだいぶあるというのに家にじっとしていられず、思わず来てしまった、という感じだった。

――「あ、タイガーマスクだ!」小学生のひとりが叫んだ。

「あ、タイガーマスクだ!」
小学生のひとりが叫んだ。遠くの方向を指差した。確かにタイガーマスクが田んぼの土手を歩いていた。
はいていたパンツは何色だっただろうか。パンツにマスクをかぶっただけの姿、つまり試合に臨むのと同じ、裸に近い格好で土手の上を歩いていた。天気はよかった。遠くに入道雲が立っていた。

「タイガーマスクが、コーラ買ったぁ」
また小学生が言った。タイガーマスクがそんなふうに歩いていたのは、農道にぽつんと置かれた自動販売機でそれを買うのが目的のようだった。やがてタイガーマスクはコーラを数本買い、それを抱えていま来た方向へ戻ってきた。
自動販売機の赤と、空の青、白い雲、なびく若い稲穂、そしてタイガーマスクの黄色いマスクが交わることなく、視界のなかにあった。なんだかわからないけど、シュールな光景だなあと突然思った。
すると、急に写真を撮りたくなった。カメラはカメラバッグの中に入れたままだった。私はそれを慌てて引っぱりだした。間の悪いことにフィルムを装填していなかった。フィルムの箱をあけ、プラスチックのケースから新しいフィルムを乱暴に出した。そうしながら、もう間に合わないことに気がついた。シュールなそれは、あっけなく消え去った。
いまでもあのときの光景が頭に浮かぶ。色あせることなく、その映像はくっきりと記憶の中にだけある。

小林紀晴 / こばやしきせい
写真家。1968年、長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社カメラマンを経て、1991年に独立。1997年「DAYS ASIA」で日本写真協会新人賞受賞し、現在は雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。2013年、写真展「遠くから来た舟」で第22回林忠彦賞受賞。

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