写真家を志す人へ テラウチマサトの写真の教科書 第10回 「時流」と「自流」
写真の学校を卒業したわけでもない、著名な写真家の弟子でもなかったテラウチマサトが、
約30年間も写真家として広告や雑誌、また作品発表をして、国内外で活動できているわけとは?
失敗から身に付けたサバイバル術や、これからのフォトグラファーに必要なこと、
日々の中で大切にしていることなど、アシスタントに伝えたい内容を、月2回の特別エッセイでお届けします。
世界にはいろいろな国があるように、「今の写真」にもいろいろな種類がある。
そのときの流行りや好みもあるし、あくまでも自分が撮りたいスタイルもある。
それは、「時流」と「自流」という言葉に頭の中で置き換えて、自らが今撮ろうとしているものがどちらにあるのかを自覚しておけばいいと思う。私も「時流と自流」は意識し、取り込んだり、取り込まなかったりしている。
しかし、撮っていて楽しいのは、「今の写真」に関わらず、自分の好きなor自分が得意とするor自分が追い求めたいタイプの写真がいちばんだろう。だから、「今の写真」という「時流」を意識しつつ、自己流を押し通すことも悪くないと思う。
ただ、撮った写真をアート作品として正当に評価を受けたいのなら、よく言われることだが(「時流」や「自流」のいずれにしても)「自分の写真が西洋美術史のどの流れを汲むものか」という考えを持っていた方がいい。そうすることで写真評価もより高まるはずだ。
それこそが「今の写真」において必要なポイントだと思っている。
また自分の撮りたい写真が自分自身にさえよく判っていなかったり、理解出来ていないとしても、西洋美術史の中の〇〇派とか〇〇主義などの系統を学んでいれば本当はこんなスタイルの写真が撮りたかったのだ!と明確になることもあるだろう。
2つの「時流」
たとば、19世紀頃。
西洋美術史の中では、18世紀後半から19世紀にわたり、フランス芸術運動が起こった。
コローやミレー、クールベに代表される“写実主義”。そして、その対極には、マネやモネやルノワール、ドガなどが活躍していた“印象派”があった。2つの対立する「時流」。自然や身近なシーンを美化、理想化することなく描いた“写実主義”と、対象の忠実な描写に重きを置くのでなく、そこから受けた印象を描くことに専念した“印象派”。
写真でたとえるなら、風景を見たままに撮影するのか、風景から受けたイメージを写真で写そうとするのかということだろう。私がポートレイトを撮影するときは、被写体の美しさをそのまま撮るのではなく、被写体から感じた美しさとはまた違う別の印象、イメージを生み出したいと思っているから、それは印象派の流れを汲んでいるといえるかもしれない。そう意識することで写真の撮り方にも変化が生まれる。
歴史の中の“今”
西洋美術史は、紀元の始まりから今に至るものだが、古代ギリシャ・ローマ時代が始まりとされている。
古代ギリシャ・ローマ時代(おおよそ紀元500年ころまで)の美術は、人間の身体の美しさを自然主義と理想主義をもって表現したことが特徴だ。それが、初期キリスト教やビザンティン、ロマネスク、ゴシックを経てルネサンス、バロック、ロココと、それぞれの時代の「時流」の中で表現形態も変わっていく。
どんな芸術のジャンルにしても、西洋美術史は意識しておいたほうがいい。「今の写真」といったところで、それは今という時間軸の1点で存在しているのではなく、連綿として続いてきた歴史の中の連続している1点なのだから。