その写真には、意図や主観が入っているか?
フォトコンPPCVol.106 総評



「PHaT PHOTO」の人気コンテストPPC。
毎号異なる3名の写真関係者を審査員としてお招きし、座談会形式で審査を行います。
デジタル雑誌で配信しているPPCの総評を、PHaT PHOTO Webでもご紹介します。

<今回の審査員>有元伸也、大和田良、テラウチマサト

3名の審査員の方々は今回の審査でどのようなことを感じたのでしょうか?
講評ではおさまりきらなかった審査員の声をお届けします。

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テラウチ 今回の講評では、記録と表現の違いについて話題があがりましたね。面白いと思った瞬間を残すものと、自分の作品として審査に応募するもの。2つの違いについて改めて考えさせられました。

大和田 表現という意味では、どこに自分の演出を持ち込むかということが重要だと思います。演出しすぎてはいけないという抑制した意識も出てくるし、一方でありのままを撮るのが写真ではないのかという葛藤もある。その中で、自分の主観をうまく写真に入れ込んである作品はやっぱり目を引きます。

有元 作品として人に見せる時にはある程度、作品にこめた意図が明確である必要がありますよね。僕も展覧会などをする時には必ずギャラリーにいて、写真だけではなく言葉でも伝えるようにしているので。見る人に理解してもらうための工夫は徹底的にやっていかなきゃいけないと思います。

テラウチ 僕もアマチュア時代にコンテストに応募したことがあるんですが、通る時と通らないときがあって。その差は、いまお2人が言われた、自分の意図や主観が入っているか、いないかということだと思います。自分はこういう風に世界を見ていて、それを表現するためにこの写真を撮ったんだ!という熱は、見る人に伝わるんだなと感じました。

大和田 僕も審査をするときには、その部分は重要視していますね。撮影者の強い感情を拾いあげたいなと思っているので。

面白いと思ったものを残すのは、表現というよりは写真的な瞬間を捉えることができているということ。それはいまでいうインスタ映えに近い意味が含まれているのかもしれません。大切な風景や印象を共有できる、共通言語のコミュニケーションとして機能するものかなと思います。

それももちろん写真の1つの魅力だと思うんですが、僕はその人にしか表現しえない言葉や音色が芸術にはあると思っていて。みんながいいという普遍的なものよりも、エッジなものを拾っていきたいという意識が強いですね。

有元 猫がかわいい、花がきれいなどの単純な感情にとどまると表現ってその先に進まない。共通体験を超えて、そこから脱却しようともがく姿勢を審査では見てみたいと思います。審査も写真家が見るのと、批評家が見るのとでは全然違ってきますけどね。

大和田 でも批評家で心地の良いものを選んでしまったら、批評家という立場としては成り立たない気がします。観点の違いはあるかもしれませんが、表現かそうでないかという線引きは批評家も写真家も一緒だと思います。

ある程度撮影の経験をして写真のリテラシーが高くなってくると、写真表現なのか、写真になる風景を撮っているのか自分の中で明確になってくるんですよね。その境界線が曖昧な人はまだあまり撮っていないんだと思います。

有元 僕は学校で学生に写真を教えているんですが、1年生はまだいわゆる名作を見せても、ほぼ感じとれないんですよ。それは彼らが知っている写真と違うから。ふだん見ているものに影響を受けすぎている部分があって、「写真はこういうもの」というのが自分の見てきたものや経験の範囲で固まってしまっているんですよね。

テラウチ 写真表現と写真的瞬間の線を見つけるには、写真を「撮り」、「観る」ことが大切だと思います。その2つをしっかりと着実に続けていくことでしか明確な線引きはできないような気がしますね。

 

いかがでしたでしょうか?
写真のプロに講評をいただく機会はなかなかありません。
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